機能は多少の遊びが必要だと感じる。
日本は仕事の設定があいまいな部分が強かったため、その反動か、外資系のように仕事を定義して、対価を払うという形が拡大してきている。
確かに、総務担当の人が、営業もやれ、技術もやれ、という話になったら、違和感があるが、人員が少ない組織では往々にして発生する。
特に仕事ができる人であると、なんでも器用にこなすから、通常の役割を超えて、依頼が飛び込んできて、うまくこなすと、段々数が増えてきて、既成事実化し、気が付いたら、業務になっている。
これは経営側の問題である。
一方で、定義が過ぎると、自分の所掌以外の仕事をしない、というセクショナリズムが起こる。
例えば、営業であれば、受注をもらうところまでは営業がするが、問い合わせやアフターは、他の組織が行うとする。より仕事をとってくるというところに、フォーカスしてしまうので、仕事にならないアフターをすることは馬鹿らしくなってくるのだ。仕事につながりそうなアフターであれば関わり、仕事につながりそうにならないときは、「アフターは他組織の仕事です」と丸投げしてしまうのだ。
機能論としては正しいが、この他組織に丸投げするときには、他組織側への配慮がほとんどない。どちらかといえば、私が本来やるべきでない仕事を受けてしまった被害者なので、即刻この仕事を引き取って欲しい。こんな発想だ。
経営者は、おそらくそんな組織・人材を求めて機能化したわけではないだろうが、少なからずこうした思考になり、評価が連動すれば、ますますこの思考に拍車がかかる。
なので、業務の定義は諸刃の剣だ。
もともと日本は助け合って組織全体の活性化に貢献するDNAが刻まれている。
個人主義であれば、そもそも組織のために、というマインドがない。そうした人を働かせるためには、仕事を定義することで、パフォーマンスを引き出す必要があったが、日本はそうではない。
曖昧すぎる仕事は、仕事のスキル向上の面から言ってもよくないが、一方で、明確すぎる仕事設定は日本人の良さを消してしまうと意識しておくべきだ。
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