スピリチュアルは嘘か本当か①【予期せぬ大惨事と引き寄せ】

宇宙の法則

スピリチュアルは嘘か本当か?スピリチュアルの疑問に答えます。

スピリチュアル・宇宙の法則に関する5つの疑問

先日、私がスピリチュアルや宇宙の法則を学んでいて「これはどうしてだろう?」と思っていることを5つ書きました(詳細は以下の記事を参照ください)

スピリチュアルは嘘か本当か【スピリチュアルに関する5つの疑問】

今日はその疑問の中で「予期せぬ大惨事にあうのは引き寄せ?」という疑問に対して、私の考えを書きたいと思います。

予期せぬ大惨事にあうのは引き寄せ?

ブループリントという言葉があります。
人生においてあらかじめ決めてきたテーマとなります。人には運命と宿命があると言います。宿命は宿ったという言葉の通り、この人生の目的・テーマとなりますので、その目的を果たすことが出来るように人生を設計して生まれてきています。つまり、変えられないものです。一方運命は、運ぶという言葉の通り、自分が選ぶことが可能です。例えば、人の愛情を学ぶというテーマであれば、家庭を持つという人生でも、人から助けられるという人生でも、先生でも経営者でも介護士でも様々な方法で体験することが可能です。

話を戻すと、予期せぬ大惨事ということが、カルマ(前世等の悪行)に起因したものでない、ということになると、考えられるのは三択です。

  • 全くの偶然
  • 引き寄せの法則(自分が引き寄せた)
  • 予め決めてきたテーマに沿う出来事

全くの偶然、といってしまうと、物理的にはこれが一番そうなのでしょうが、そう言ってしまうと宇宙の法則の存在の有無自体の議論になります。それは別の意味で重要ですが、ここでは一旦置いていきます。

次に自分が引き寄せたということですが、これは前回の記事で記載した通り、そもそも幸せな状況の人に不意に襲ってくる出来事が、自分が意識して引き寄せたというのは無理があります。

また、別のパターンで考えると、私たちは(少なくとも物理の感覚だと)生まれる環境は選べません。生まれる環境は、自分の思考が引き寄せたということにもなりません。なぜなら自分自身は、まだその世界に存在していないからです。

ということで、最後の「予め決めてきたテーマに沿う出来事」という考えが残ります。例えば、自分が愛情を学ぶということをテーマとしていたら、幸せな期間は勿論ですが、予期せぬ不幸な出来事に見舞われたとしても、自分は愛情に支えられているという事を体験する、という感じです。

例えば、深い愛情を与えてくれた親が自分が思春期の時期に急逝したとします。それ自体はとても悲しいことですし、親がいなくなり生活やお金に困る状況になります。しかし、自分が「ある」いう感覚でいると、先生や周囲の大人、友達やそれまで話したことがなかった人が、タイミング良くあらわれ、自分が愛情に囲まれている人生を改めて体験する、ことになる。という事です。

自分が決めたテーマを果たすために最も適した環境、肉体を選んでくる、ということです。

非日常を味わいたいから山を登る

別の例を話しましょう。

皆さんは登山は好きですか?山より海が好きという人や、高い山は高山病になってしまうので苦手だけれども、小さめの山であれば登りますという人など、様々な方がいると思います。

最近(最近でもないかもしれませんが)は、「山ガール」という言葉が出てきたり、「山の日」が祝日として決められたりと、山登りは、昔のように屈強な大人の男性だけがする「登山」というイメージではなく、老若男女様々の方が楽しむモノになってきています。皆さんの周囲にも登山が趣味という人だったり、週末時折山登りをしているという方が何人かはいるのではないでしょうか?

なぜ、人は山に登るのでしょうか?「そこに山があるから」と言うのがある登山家の名言ですが、スピリチュアル的にいうと、それは「普段とは違う体験、挑戦」への欲求、ということではないでしょうか?言い方を変えると「非日常」を味わいたい、ということです。

有名なテーマパークにいく、マラソンを走る、ジェットコースターに乗る、お化け屋敷に入る、海外旅行をする、なども同じような欲求が根底にあると思います。

その一つの例が山登りですが、登る人は大変で疲れることが分かっていても、山に登ります。富士山は山裾のエリアも含めて世界遺産になりましたが、日本の象徴として世界的にも有名で、昔からとても人気です。富士山に登る理由は大きく二つあると思います。一つは「非日常体験をしたい」、もう一つは「自分なら出来るということを証明したい」ということです。

非日常体験をしたい人の中には、山登りにそれほど慣れていない人もいます。でも富士山に登ってみたいということで登ります。そのため、いざ登り始めてみると、山頂までの距離が長すぎて後悔したり、高山病に苦しんだり、「もう登れない。。。」と途中であきらめて下山する人もいます。しかし、何とか頑張って、最後まで登りきることが出来ると大きな達成感を得ることができます。

また、自分なら出来るという人は、登山に慣れていて、富士山は勿論、自分だったら海外の有名な山であっても自分なら問題なくいける、同じ山でも難関ルートを登り切れるはずだ、そのことを証明したい、などの思い持っていたりします。しかし、そんな自信をもって登り始めた人でも、途中で予想外の体調不良になったり、高山病や凍傷になってしまったり、天候が悪化して登れない状況になるなど、想定外の苦労や課題に遭遇します。しかし、最後まで自分の目標をクリアすることを目指して頑張って登ります。

思った通りの結果が出なかった人、途中休んで何とか登り切った人、様々な人がいますが、多くの人は登り終わったあと、途中で相当苦労した人も含めて、また山に登りたい、と思うようです。今回は上手く登れなかったけど、今度はもっとうまく登れるはずだ、次回はあの山に登ってみよう。次は冬山にチャレンジしてみよう、等々。

人生を山登りと重ねてみる

これは、これを先ほどのブループリントに当てはめてみましょう。
この世界に生まれてくるのは、自分で山を決めて、登りいくようなものです。高次の世界は思ったことが何でも実現させることが可能と言います。なんでも叶うというのは、私たちからすると、とても羨ましい世界ですが、恐らくそんな世界に暮らしていたら、つまらないと思います。
山登りは「疲れる」「つらい」という側面と登頂したとき達成感や登ること自体が楽しいという側面があります。何か思ったことが直ぐに叶ってしまうと、この両方を味わうことが出来ません。私たちは非日常を味わうために山に登るように、あえて制約がある世界に、テーマを持って生まれてきます。山はその私たちが決めてきたテーマです。極寒の冬山もあれば、裾野から山頂までの景色を楽しめ山、急な崖と穏やかな山道が共存する道等々、様々な選択肢があります。

ただ、決めてくるということは、

  • この山を自分は登ってみたい。
  • 山登りはやりがいがある。楽しい。再度体験してみたい。

ということを分かっています。私たちはガイドがいます。様々なルートは選ぶことができます。
そう考えると、少し人生の見方が変わってきます。一見不幸に見えることも含めて、どんな出来事も自分が決めた山の中での出来事、山を登るルートは必ずあります。不安という感情は誤ったルート、ワクワクするという感情があるべきルート、自分自身に戻れば、山を登る過程で自分が決めてきたことは経験が出来るようになっています。

これも実証的に証明できるすべがありませんが、経験的には納得感があります。バシャールやエイブラハムなど、高次の存在の言葉を含めて考えると、予期せぬ出来事のいくつかは、自分が決めてきたテーマを生きるために必要なイベント、そこからの学びを得ることが必要なモノなのではないでしょうか?

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